やがて、大きなせきをひとつして、ネグロポンティが言った。
「では、その件はいちおうおいて、つぎの件にうつる。ドーリア星域で敵と戦うにさきだって、きみは全軍の将兵にむかって言ったそうだな。国家の興廃など、個人の自由と権利にくらべれば、とるにたりぬものだ、と。それを聞いた複数の人間の証言があるが、まちがいないかね」
「一字一句まちがいなくそのとおりとは言えませんが、それに類することはたしかに言いました」
ヤンは答えた。証人がいるなら、否定しても意味のないことである。なによりも、自分がまちがったことを言ったとは、ヤンは思わなかった。彼はつねに正しいわけではない。だが、あのとき言ったのは、まっとうなことだった。国家など、滅びても再建すればよい。ひとたび滅びて、再建された国家はいくつもある。むろん、再建されず滅びさった国家のほうがはるかに多いが、それは歴史上の役割をすでに終え、腐敗し、老衰して、存在する価値を失ったからである。国家の滅亡は多くの場合、悲劇であるにはちがいないが、そのゆえんは、多量の血が流れることにある。さらには、まもるに値しない国家を、不可避の滅亡から救いうると信じて、多くの人々が犠牲となり、その犠牲がなんらむくわれないところに、深刻きわまる喜劇がある。存在するに値しない国家が、生きるに値する人々を人々を嫉んで、地獄へ転落する際の道づれにするのだ。そして最高権力者といえば-- 無数の死者が彼の名を叫びながら戦場で倒れていったことを忘れさって、敵国の貴族としてゆたかな余生を送る者すらいるのだ。戦争の最高責任者が最前線で戦死した例が歴史上いくつあるというのか。
...
「お言葉ですが、委員長閣下」
それでもせいぜい声をおさえて、
「あれは私には珍しく見識のある発言だったと思います。国家が細胞分裂して個人になるのではなく、主体的な意志をもった個人が集まって国家を構成するものである以上、どちらが主でどちらが従であるか、民主社会にとっては自明の理でしょう」
「自明の理かね。私の見解はいささかことなるがね。人間にとって国家は不可欠の価値をもつ」
「そうでしょうか。人間は国家がなくても生きられますが、人間なくして国家は存立しえません」
抜粋:
銀河英雄伝説3 雌伏篇
田中芳樹